Vol.16 青戸児童館への思いメインビジュアル

2012.07.31

私たちは4月以降、5月に通常総会、6月に臨時総会を経て、葛飾幼児グループという通所訓練事業を、これまでの法外施設から児童福祉法に基づいた法内施設に移行することに決めました。
移行後は児童発達支援事業となりますが、現在の設備では基準を満たさないため、引っ越さなければなりません。

葛飾幼児グループは1971年に発足し、梅田児童館での週2回の活動期間を経て、1979年に、新設の青戸児童館に専用室を得て活動してきました。
当初、障害があることで保育園や幼稚園に入園できなかった子を持つ6人の母親が、「我が子にも友だちが欲しいし、遊ぶ場が欲しい」と始めた自主保育に、ボランティアの学生職員が係わり、「障害のある子もない子も共に育ちあう場」という理念のもとに集まった多くの母親の努力が、青戸児童館入館につながったのです。

1995年まで葛飾幼児グループは、母親が職員・ボランティアと三位一体で運営し、補助金の受給、職員の給料計算、バザーの運営、供出品の回収・仕分け・値付け、また事業の運営や行事に係わる実行委員等、さまざまな業務をこなしてきました。
代々の母親が、我が子の居場所を守るために綿々と努力してきたのです。
1996年、社会保険に加入することで薄給ながらも職員の身分保障が整い、運営権も職員に完全移行しました。

私は、はじめ通所児の母親として葛飾幼児グループに係わり、代表(父母の会会長)を2期務めた後、職員になって社会保険加入の実現に向けても奔走しました。
この場で同じ境遇の仲間に出会い、誠実な職員に出会い、次々に発覚していく我が子のハンディと向き合う度に、涙を流して自身も育てられました。

青戸児童館は自分の生活地域ではないけれど、そこで児童館の利用者と交流し親交を深めることで、自らの垣根を取り除き、我が子と共に保育園に飛び立つことも、地域社会に飛び出すことも出来たと感じています。
青戸児童館のホールは、私にとってノーマライゼーションの原点といっても過言ではありません。

残念ながら現在の青戸児童館は、いろいろと制約が増え、「共に育ちあう」魅力も薄れ、私たちもこの場にこだわることが必然ではなくなってきました。
しかし、先人の汗と涙と努力の結晶である青戸児童館を出て行くことについては、万感の思いがあります。
歴代の母親が守ってきた場を出ることには重責を感じます。
引っ越す以上は、ぜひとも先人たちに引っ越して良かったね、法内化して良かったねと言ってもらえるような、発展的な形でなければなりません。

私たちの療育が法に則(のっと)り、尚且つ従来に沿った内容を保つことが出来るような場所を求めて、ただ今物件探しの日々を重ねています。
障害を持つ子を育てる母親が育ち、羽ばたいていける場を提供し続けていくために。