7月27日、母が逝きました。
平成25年2月にクモ膜下出血が原因で倒れて以来、約3年半闘病していましたが、最後は老衰で、まさに枯れるように静かに息を引き取りました。
はじめの1年は、自宅に連れ帰りたい一心で4つの病院を転々とし、リハビリを兼ねた介護老人保健施設(老健)では、看取りまで2年5か月を過ごしました。
母は、2度目のシャント手術の後、リハビリテーション病院で気管切開から解放され、食事訓練も成功するかに思えましたが、医師によると、おそらく認知症が進んだせいだろうとのことで、自分で食事を摂らなくなり、結局、胃ろうのままで老健に移りました。
介護認定は最重度の要介護5でしたが、老健では、外泊という形で自宅に帰ることが出来たので幸いでした。
平成26年5月に初めて一泊し施設に戻る時、母は玄関先でスカートを履くと言い張り抵抗しました。
まさかまた施設に戻るとは思っていなかったようです。
その後は、二泊、三泊、四泊と、春、秋の気候の良い時期に月1回位ずつ外泊を楽しみ、自宅ではいつも以上におしゃべりし、家族と一緒にテレビを見たり、散歩したり、おやつのゼリーを食べたり、表情よく過ごし、毎回少し元気になって施設に戻りました。
最近ふと私は、あぁもう老健に寄らなくて良いんだなあと思いながら、家路を急ぎます。
私は、母が運よく職場近くの老健に移ってからは、ほぼ毎日仕事帰りに寄って、母との時間を過ごしました。
リハビリテーション病院と老健では、リハビリの量が圧倒的に違います。
少しでも足しになればと体を動かしたり、声を出してもらうために絵カードを読ませたり、歌詞カードを作って一緒に童謡を歌ったり、また、絵本を読み聞かせたり、読んでもらったり、素材も大きさもさまざまなボールでキャッチボールをしたり、「むすんでひらいて」などの手遊びをしたり、まるで、仕事で子ども達に接するのと同じだなあと思いながら…。
母は「ぞうさん」と「春が来た」がお気に入りで、よく声を出して歌い、「お寺の和尚さん」の手遊びをして、最後のじゃんけんに勝つと必ず笑顔で喜んでいました。
それでも母は徐々に出来る事が減っていき、私は、次女を育てる過程で感じた強迫観念にも似た思い(自分がさぼったら母の容態が悪化する)で、母の意識がはっきりしている日とぼんやりしている日に一喜一憂しながら、来る日も来る日も同じことを繰り返しました。
昨年末ごろから経管栄養が吸収されにくくなったのか、母は急速に痩せていき、5月初めの外泊を最後に体調が悪化して、医師から家族に終末ケアの話があり承諾しました。
生前、私はそれほど親孝行な娘ではなく、反抗することも多々ありました。
しかし、この3年半、仕事を続けながらも出来る限りのことはやり切ったと思えるのは、本当に幸せなことで、その時間を与えてくれた母に深く深く感謝しています。
次女は毎朝遺影に向かって「おばあちゃん行って来ます」と言って、出かけます。
私も母をいつも身近に感じており、寂しいとか悲しいという感情は未だ知らずにいます。
「お母さん、花を愛し、お茶を愛し、足が速く、達筆だったあなた、妹を産んで産院にいる間、一緒に居られない私が可哀想だと泣いていたというあなた、その深い愛情に私は応えることが出来たでしょうか?」