Vol.21 母の再生物語メインビジュアル

2013.12.31

平成25年2月4日、父から母が外出先で倒れ、救急車でJ病院に搬送されたと電話が入りました。
取り急ぎ車で父を拾って駆け付けると、まだ救急隊の方がいて「金町駅のトイレで倒れているところを、利用者が見つけて駅員に知らせてくれた」ということを知りました。
14時40分の通報でしたが、救急隊が到着したときはまだ意識があり、「午後2時過ぎに家を出た」と自分で言えたそうです。
金町駅のトイレは改札の中にあります。出る前から頭が痛いと言っていたので父が止めたけれど、母は、いつものようにバスで金町駅まで買い物に出掛けました。
くも膜下出血の痛みは「バットで殴られたような」と比喩されるほど相当な痛みのようです。
恐らく母は車中で痛みが増し吐き気もあったので、何とかトイレに行こうと駅員に頼んで構内のトイレまで辿り着き、力尽きたのでしょう。
取り敢えず脳室の血を抜くためにドレーン手術をし、集中治療室で管をたくさんつけられ、顔も随分腫れ上がって眠っていました。

2月5日、意識レベルが5から4に上がり、自分の名前が言えたということで、本来の治療であるクリッピング手術をやって貰えることになりました。
術後「今後、越えなければならない大きな山は3つ。再出血、脳血管れん縮(術後4~14日)、水頭症(術後1カ月以降)」と言われました。

2月12日、呼吸を確保するために、挿管よりも本人が楽になるということで、迷ったあげく気管切開(以下気切)。
数日後、一般病棟に移りましたが、呼吸は苦しそうでした。

2月19日、気管に血液の塊が詰まって窒息しかけ、取り除くための緊急手術。原因不明。

4月5日、母は3つ目の山であった水頭症を発症し、脳室の水を腹腔に流すためのシャント手術をしました。
するとだんだん開眼時間が長くなり、2週間後には笑顔さえ出るようになったのです。
毎日私が病室に入り「来たよ」と声をかけると、私を見てにっこり笑い、頷いてくれるようになりました。
PT、OT、STによるリハビリもあり、徐々に徐々に簡単な質問に首を振って応答したり、体を動かしたり出来るようになっていきました。
その頃転院に向けて準備するよう促されましたが、ソーシャルワーカー(以下ワーカー)は、はじめから療養型病院しか勧めません。
本来なら「くも膜下出血のシャント手術後」なので、回復期リハビリテーション病院(以下リハビリ病院)で、150日のリハビリを受けられるはずです。
しかし、母は気切しているし高齢なので、リハビリ病院は受けてくれないと言うのです。
J病院は急性期病院だから3カ月しかいられないとのこと。
母のために良かれと思って気切したのに、それが今後の治療、行く先を大幅に狭めてしまうとは全く予期しませんでした。
医療制度はとても矛盾しています。
ある日、「療養型病院は看護師の数も減り、現在受けているリハビリも受けられなくなるのに、折角ここまで回復したのを維持することができるのか」と、ベテラン看護師に問うたところ「現状維持どころかだんだん悪くなるのを待つ所だ」と言われてしまいました。
また、「2時間置きの吸引が必要な現状では自宅は無理。あなたがすぐに仕事を辞めれば別だが、辞めるのは勧めない」と。
それでも私は、外出先で倒れた母を連れ帰りたくて、入院中に出来るだけ吸引とおむつ交換の練習をさせてもらうことにしました。
また、一時的に療養型病院に行ったとしても、面会時間に覚えたことをやってあげられるように、リハビリの様子も何度となく見学させてもらいました。

5月8日、入浴中にシャントの傷口が開いているのを見つけたということで、再縫合手術。
しかし、菌が入ってしまっているので髄膜炎を起こす可能性があると言われました。

5月14日、療養型のK病院を見学。
そこのワーカーにも「自宅は無理、あなたにはあなたの人生がある。お子さんもあなたを必要としている。今仕事を辞めたら後悔しますよ」と諭されました。
母に似合いそうなパジャマを用意したり、オムツを買ったり、洗濯物を持ち帰ったり、そうすることも母とつながっている気持ちがして嬉しいものでしたが、療養型病院のほとんどが、寝具、タオル、オムツまで持ち込み禁止です。
帰り道、もう私の出来ることは何もないのかと思うと、人目もはばからず涙があふれてきました。

5月22日、髄膜炎のためシャントの抜管手術。母は元の水頭症の状態に戻り、ボーッとしているのに、その後の病院の対応は、どんどん不信感を募らせるものでした。
「もう頭のシャントは出来ないから、希望があれば3ヶ月後に外来を受診して検査後、腰のシャント手術をする。だから一旦転院するか自宅へ」というのです。
あんなに自宅は無理と言っていたのに手の平を返すようでした。3ヶ月待っている間に脳圧が上がったりしないのでしょうか。
私は、わらをもすがる思いで、次女の主治医に母の現状を相談しました。
するとセカンドオピニオンを勧めて下さったのですが、先生のとっさに浮かんだ病院はどれも東京の西にある病院でした。
でも何とかしなくては。私はとにかく端から電話で問い合わせました。
何しろ母は動けないので、私が代理受診するわけです。
数カ所の中でT病院が、外来の看護師まで電話を回してくれて、予約を取ることが出来ました。

6月13日、経管だと感染のリスクがあるとのことで、迷いに迷ったあげく胃瘻造設。

6月18日、T病院受診。
脳神経外科部長のT先生は、私の話をよく聞いてくれ、「母の水頭症は正常圧水頭症と言って、他の水頭症のようにはならない。ぼんやりした状態が続くだけ」と説明してくれました。
「シャントなんて何でもないよ。僕の患者さんで1年ぐらい寝たきりで、3回目のシャント手術がうまくいって、翌日歩いて帰ろうとした人がいるからね」と、話を聞いて心が軽くなりました。
そして「J病院でやってもらえば良いよ。横から変なおじさんがするより、やってもらいなさい。」と背中を押してもらいました。
ところがJ病院に持ち帰ったものの担当のM先生には、まるで再手術の気持ちがありません。
その後、「30ccの髄液を抜くタップテストを1回して病状に変化がないので、この結果では、T病院など大きな所はまずやらない。やるとしたら金儲け主義の病院です」と言われてしまいました。

7月11日、T病院を再受診。
結果を基にT先生の所に行くと、「1回やったくらいでは分らない」と、さらにタップテストを勧められました。
ところがM先生は「これが、くも膜下出血で倒れた84歳の○○さんの上限です」と言い放ったのです。

7月20日、療養型病院だけれど、リハビリをしてくれるというF病院に転院。
ここは、短い入院期間に何度も胸のレントゲンを撮ったり、看護師長が代理で仕切ってなかなか担当の院長に会えなかったり、母の尊厳を無視した看護をされたり、入院してみて初めて知る状況に、一刻も早く転院したいと思いました。

7月25日、T病院の3回目の受診。
T先生は待ち構えていたように「かわいそうなことになっている患者さんの話をしていたら、墨田区のB病院から来ている医師が、僕のところで出来ると思うと言うので、そこに紹介状を書くから。
何も東京の東から西まで横断するほどのことでもないよ」と言って、B病院の脳神経外科部長のI先生宛に紹介状を書いてくれました。
そして「I先生は僕と同期で、すごく優しいから、きっと手術してくれるよ。もしダメだったら僕がやるから」と送り出してくれました。

8月1日、B病院受診。
I先生は確かに優しそうな方で「気切をして胃瘻もして、母が努力しなくても生きられるようにしてしまったので、せめて意識だけでもはっきりさせてあげたい。私を見てにっこり頷く顔が忘れられない」とお話しすると、にっこりほほえんで「手術しましょう」と言ってくださいました。

8月7日、B病院に転院。13日、再びシャント手術をして貰いました。
結果は前回同様、術後すぐにと言うわけではありませんでしたが、じわじわじわじわ好転して再び笑顔が見られるようになりました。
B病院も急性期病院なので、また次の病院を探さなければなりません。
担当のワーカーには、2回目でもシャント後のリハビリの適用が出来るのか聞き、母は生きたい人であることをよくよく説明しました。
また、F病院には戻りたくないことも切にお願いしました。
ありがたいことにB病院のワーカーは、3箇所のリハビリ病院にあたってくれ、1箇所だけ気切している85歳になった老人を受け入れてくれる病院がありました。
しかし、遠い千葉県の病院です。これまでほぼ毎日面会出来ていたことを思うと、たいへん躊躇しましたが、リハビリはシャント手術後の今しか出来ず、選ぶ余地はありません。
見学対応をしたS病院のワーカーの人柄から、きっと良い病院だろうと期待して転院を決めました。

9月26日、S病院に転院。
ここは週7日休むことなくリハビリをしてくれます。
転院当日、早速リハビリの担当になるPT、OT、ST、MTを紹介され、医師も交えて、母の可動域等を調べ、明日からのリハビリ計画を作成してくれました。
そのとき担当となる院長が、私と父と娘のために椅子を3脚運んできてくれたのです。
病院は何でも来年建て替えるそうで、古いし、設備が整っているとは言いがたい。
でも、職員は皆やさしくて親切という印象を持ち、安心してお任せできる雰囲気にほっとしました。

10月10日、何と院長は母の気切の管を取ってくれました。
これまでの病院では、痰が多いから難しいと言われていた管を取ってくれ、お楽しみのゼリーどころか、まずは昼食時にSTがついて食事の練習を始めてくれたのです。

11月18日、両親はダイヤモンド婚式(60周年)を迎えました。
来春85歳になる父は、遠くなった今でも、一人でバスと電車を乗り継ぎ、私が休みの日は車で一緒に、ほぼ毎日母を見舞っています。

現在母は、おぼろげながら会話が出来、歌を歌い、読み書きも出来ます。
食事もおかゆと刻み食をスプーンを使って一人で食べ、そろそろ3食とも食事にしようかと言うところまで来ています。
もう本当にありがたくて涙が出そうです。
初めの病院で言われるままに療養型病院に転院していたら、意識の曇ったまま寝たきりで、ただただ単調で衰えるのを待つだけの生活を送っていたことでしょう。
それが今こうして再び声を聞き、食事をする姿を見ることが出来るなんて。
J病院では私は間違いなくモンスターペイシェントだったでしょう。
でも諦めなくて良かった。母を信じて良かった。母のために頑張ることが出来て良かった。
振り返れば、初めに命を救ってくれたのはJ病院のM先生です。気切の管を取って通常7~10日でふさがるはずの穴が、母の場合1ヶ月くらい閉じなかったのに肺炎にならずに済んだのは、F病院で打った肺炎球菌ワクチンのお陰かもしれません。
B病院で再手術をして貰えたのは、T病院のT先生のお陰です。
何より幾度ものリスクの高い手術に耐え抜いて、ここまで回復した母の生命力に圧倒されます。
私は母から多くのことを教わりました。母の子どもで良かった。